物理人、世界を語る

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やった後でないと分からないことがある。「学び」とは何だろうか

最近、記事を書き始めて思う事があります。

 

それは、記事を書き始めないと自分が何を書くのか分からないという事です。

 

あれ書こうかなあこれ書こうかなあと頭を悩ませても、結局分かりません。でも、書き始めると、意外とすらすら思い浮かんで文章を書くことが出来ます。

 

「分かる」というのは、「安心すること」と似たような事ではないかと思うのです。

 

記事を書き始める前は、自分がその内容について書けるのかどうか、不安です。学校のレポートや、宿題などもそう。

基本的に、やり始める前は、不安はついてくるものだと思います。

 

慣れとともに徐々にそのような気持ちは薄れていくのかもしれませんが、それでもついてくるものだと思います。

 

でも、記事を書く、ぐらいのことなら、意外とやってみたら出来てしまう事が分かります。「安心」します。「安心」すると同時に、「何を書いたらいいのか」分かったような気になります。

 

「何を書いたらいいのか分かった」というのは、実は「分かった気になっているだけ」ともいえると思います。

 

書く前は不安だったのに、記事を書いた後はその自分が書いた記事を眺めて「自分って記事書けるじゃん」と自信ありげに眺めるのです。

 

書く途中で、めっちゃ不安になりながら、こうじゃだめだなああじゃだめだなとかめちゃくちゃ文書後から修正しているのもすっかり忘れて、結果だけ眺めて、「自分って記事書けるじゃん。」と。

 

しかも、その「記事を書くという事について分かった」というのも、「自分の経験に基づくもの」だけであるのに、一般化して分かったような気分になります。

 

物理や数学をやっていて普段からものすごく感じることなのですが、どれだけ「自分が勘違いをしている」という事に気づいてないかが分かります。

おお!分かった!とか思っても、2、3日後には間違っていることに気づくことがよくあります。

 

一番に、「分かる」と私たちが感じるのは、「分かった気になった時」だと思うのです。

 

それは、「安心する」時でもあると思います。宿題や、レポートや、記事を書き終えた後は、安心します。それで自分って書くこと出来るじゃん。と思います。

「やる前はめちゃくちゃ不安だった」にもかかわらず、まるで自分が「出来る人」であるかのように、「終わった後になって感じる」ことが多いです。

 

そして、二番に、「本当の意味で分かる」には、それの繰り返しが必要だと思います。

私は、「学ぶ」という事は、「自分が無知で、どれだけ先入観を持ちすぎているか知る」という事だと思います。つまり、「自分が分かっていないという事が分かる」というのが「学び」だと思うのです。

 

それは決して悪い意味で言っているのではなく、とてもいい意味で言っています。単純に、自分が間違っていた、と本当の意味で分かった時は、うれしい気持ちになります。「学び」というのは楽しいものなのだと思います。

 

「ただ物事を知る」ということは、「学びになる」と私はそこまで思いません。

人間には多少の考える力が備わっていますから、「知るだけ」でも、「多少役に立たせる」事は出来ると思います。

 

しかし、それを目的にして学ぶのは、単純に面白くないと私は思います。

 

どうせ「学ぶ」なら、「分かった気」ではなく、「分かる」ようになりたいと思うのです。

 

よく、先輩が後輩に向かって、「俺は昔こうだった」とか「俺はこうこうこうだから成功した」と凄い主観的に言う場面が見られます。(すごく客観的に後輩のことを考えて自分の経験談を話す方もいらっしゃいますが)

 

その様な人たちは、「結果」しか見えてないのではないか、と思うのです。

確かに「結果」は大切だと思うのですが、先ほど私が記事を書くことについて話したように、「自分がその時は結構不安の中やっていて、あれこれ試行錯誤して、出来た!と思ったらまた違って、何したらいいのか分からなくなって、ああでこうで・・・と頑張って、やっと一つの光が見えてきて・・・と思ったらまた失敗して、というのを繰り返して今に至っている、また今もその最中」であるということが分かっていないのではないか、と思います。

 

 

そして、今私がこうして意見を書いているのも、自分でも気づかないうちに偏った意見になっている可能性がとてもあります。

 

でも、「偏っている可能性がある」、「間違っている可能性がある」ということを認識できていることが大切だと思うのです。

 

そうすることで、「次の学び」につながると私は考えます。