物理人、世界を語る

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アクティブ・ラーニングはよく考えてするべき。

 

 アクティブ・ラーニングという言葉が教育業界で流行り出して久しい。

 

特に私の世代(大学生)は、アクティブ・ラーニングの実験対象として、実験的に多くのアクティブラーニング的な授業を受けたことだろうと思う。

 

まず一番初めに私の意見を言っておくと、アクティブラーニングには賛成とも反対ともいえない。やり方が良ければ賛成だし、やり方が悪ければ大反対という立場だ。

 

現在、アクティブ・ラーニングという言葉はあまり使われなくなってきており、「主体的・対話的で深い学び」という文言に移り変わりつつある。

 

「主体的・対話的で深い学び」という学びの方針には非常に賛成だ。

聞くだけで考えないような勉強に意味は少ない。もちろん知識をきちんと入れることも大切だが、自分で答えを出すという事も必要である。

 

しかし、今まで私が「アクティブラーニング的な授業」を受けてきた中でこの学びが達成されているような授業を受けたことはほとんどない。

 

むしろ、「アクティブラーニング的な授業」よりも、「アクティブラーニング的でない授業」を受けたときのほうが、「主体的・対話的で深い学び」が達成されていると感じる。

 

現在のアクティブラーニング的な授業について思う事

 

①個人で考える時間が少なすぎる。

 よく議論をさせられるが、まず個人で考える時間が少ないと「自分の意見」をしっかりこだわりをもって持つことは出来ない。こだわりのないまま議論をさせられても、ふわふわしたままなんとなーく正解っぽい人の意見にみんなで賛成して終わり。ただそれだけだと思う。

②「テーマを勝手に用意されて考えさせられる」ことはアクティブとは全く言えない。

テーマがものすごくみんなの興味をひくものだったらいいと思うが、基本的に人は「与えられるもの」に対して「アクティブ」になることはなかなかできないと思う。

やるなら、テーマ選びも自分たちで決めて研究発表をする、というような形で授業をしたほうがいいと思う。(というかこれも下手したら楽したいがために生徒たちが楽そうなテーマ選びをやって終わりな気もする)

③教師のレベルが低いとできない。

まず、教師のレベルが低いと、教師が自分の考えを持てていないという状況になる。答えをなぞったような事しか言わないような教師が、「議論しなさい」とか「自分で答えを出しなさい」などといっても説得力は少ないと思う。これは、教師自体に問題があるというよりも、こんなことを半強制的に方針としてやらせている教育委員会の責任でもあると思う。

④答えが最後に説明するのに考える意味を生徒が感じにくい。

 議論して!と言われたところで答えは最後に必ず発表される。そんなものをやることに生徒が意味を感じられるかどうか疑問である。自分のオリジナリティ性を発表したり考えたりするのが「アクティブ」なのに、最後は、「正解」という暴力で「採点」されて終わる。正解を発表するにしてももう少し時間をおいてからにすべきである。

⑤成績評価するのに「アクティブ」な授業を作るのは至難の業

必ず、教育には成績評価というのが付きまとってくる。評価されるのにアクティブ性を保っていられるのだろうか。研究の世界などは、正解はどこにも置いていないので、「アクティブ」で「オリジナル」こそが評価に直接つながってくる。しかし、学校で教えるような内容は、そこまで難しくないし、調べれば簡単に出てくる。相当意識の高い学生でもない限り、要領よく人の意見に従ったり調べたりして成績上げとこう、というところに意識が向くのは必然ではないだろうかと思う。

 

 

最後に

教師の自己満足的なアクティブラーニング的な授業はやめてほしい。生徒の時間や知識を得る時間を奪う事になる。

 

それをすることによって教師の技量は高まるのかもしれないが、そこのところは教師にも注意するよう教師への教育も必要だと思う。(教師の方も大変かもしれないが)

 

 

 

 アクティブラーニングの授業を成功させるには相当の教師のレベルが要求されると思う。